本尊(ほんぞん)

地蔵菩薩像
(じぞうぼさつぞう)

脇持に不動明王像と毘沙門天像を安置しています。

伽藍(がらん)および沿革

実光院は魚山 勝林院(ぎょざん しょうりんいん)を本堂に頂く僧坊の一つで、応永年間(1394~1428)に宗信法印によって復興された。 かつては当院や宝泉院のほかに、普賢院、理覚院など、多くの僧坊が存在しました。
実光院は本来、現在地の向かい側、大原陵(後鳥羽天皇・順徳天皇陵)がその境内でした。大正8(1919)年、普賢院と理覚院を統合する形で旧普賢院の境内に移転し、現在に至っています。これは、梶井宮門跡第20世・尊快法親王(後鳥羽天皇 第10皇子)の御心によって、旧実光院の庭園に両帝のご遺骨を分散して安置していましたが、本陵として整備するため旧宮内省の命によって移転したのです。

客殿は大正10(1920)年に建てられました。欄間に配置される「三十六詩仙」画像は、江戸中期に狩野派の絵師によって描かれたもので、同様の作品が詩仙堂にも残されています。
客殿の南側に広がる庭園は「契心園(けいしんえん)」といい、江戸時代後期に作庭されたもの。律川より水を引いた心字池を中心とした、池泉鑑賞式庭園です。池を三途の川、対岸の築山を極楽浄土に見立てています。

また、客殿の西側に広がる回遊式庭園は旧理覚院の境内で、実光院と統合されて以来、歴代住職が作庭整備して今日に至っています。借景として大原の山並みを取り入れた、開放的な雰囲気の庭です。庭園の中央に植えられた不断桜は、初秋から翌年春にかけて花を咲かせる、とても珍しい品種です。秋には桜花と紅葉が同時に楽しむことができ、寒さ厳しい冬には雪と桜とを同時に楽しむことができます。

庭園西北に位置する茶室「理覚庵」は、昭和50(1975)年に建てられたもので、建築資材のほとんどが実光院領の山林から切り出して調達されました。山里大原は農業も盛んということもあり、通常は武士のために刀掛けを設ける部分には、農作業に使う鎌が掛けられています。

魚山声明(ぎょざんしょうみょう)

天台宗の法要儀式に用いられる仏教声楽を、「魚山声明(天大声明)」といいます。
「声明」とは、経典や高僧が著した論釈の文言に、独特の旋律を付けて唱えることを指す言葉です。大原で伝承されてきた「魚山声明(ぎょざんしょうみょう)」は、平安時代に慈覚大師円仁(794~864)によって唐から伝えられました。「魚山」とは、中国山東省に所在する声明の聖地「魚山」の名にちなんだものです。
魚山大原寺は、勝林院を本堂とする下院、来迎院を本堂とする上院とに分かれています。勝林院の開基である寂源上人(?~1024、第三代天大座主・慈覚太師円仁より9代目の弟子)は、大原を慈覚太師が唐より伝えた法要儀式に用いる梵唄声明(仏教声楽)研鑽の地と定めたのであります。その後、聖応太師良忍(1073~1132)によって来迎院が魚山上院に開創され、この両院を以て「魚山大原寺」と総称されるようになりました。寂源上人が勝林院を開いて以来、大原には声明を研鑽する僧侶が集まり、多くの僧房が建立されました。
以後、魚山声明は日本仏教の宗派にも伝えられ、それぞれの宗派が用いる経論に魚山声明の譜が付けられました。また声明の音曲は、世俗音楽へも影響を及ぼしました。琵琶による平曲、能の謡いや長唄、あるいは浪曲や明治期の都々逸にいたるまで、魚山声明にその源流を求めることができます。