魚山大原寺勝林院

(ぎょざんだいげんじしょうりんいん)

天台宗大原魚山流聲明道場
法然上人大原問答旧跡
円光大師二十五霊場第二十一番札所

本堂

魚山大原寺勝林院本堂は長和2年(1013年)円仁より数えて9代目弟子の寂源により、法儀声明念仏三昧の根本道場として建立されました。別名『問答寺』とも『証拠堂』とも阿弥陀堂とも呼ばれています。
寂源により建立された本堂は数多の火災、洪水により破損し、修復再建されてきました。江戸時代初期、徳川家光の代に春日局の願によりお江の方、崇源院の菩提のために再建されたという縁起が高欄の擬宝珠(ぎぼし)に刻まれていますが、享保21年(1736年)正月の火災により焼失してしまいます。
現在のお堂は安永7年(1778年、徳川家治の頃)に再建され、縁起が刻まれた擬宝珠もこの時のものです。屋根は椹板(さわらいた)で葺いた「柿葺き(こけらぶき)」、柱、梁など軸組、床板などすべてが欅造り(けやきづくり)となっています。

大原問答

大原問答とは法然上人が顕真法印(のち第61代天台座主)の招きにより大原の勝林院において浄土の宗義について交わされた論議のことです。
顕真法印が主催となり法然上人を中心として、天台証真、高野山明遍、笠置寺貞慶、東大寺重源などが集まり一昼夜にわたり法然上人に12の難問が投げかけられました。この時、数多くの聴衆も集ったと伝えられています。

問答では「どうすれば迷いの境地より脱して悟りの境地に入ることができるか。」の問いに対して法然上人は「成仏はむつかしいけれど、往生は易しい。仏の願力を強縁としてにより有知無知を論ぜず、持戒破戒を選ばず、迷いのままに往生できる。」と答えられました。また「念仏を称えて往生をとぐべきことは理解できてもこの心が静まらないのは如何すれば。」の問いに対して「煩悩は起これども本願力で往生を得る。人間ありのままのすがたで救わるる道が称名念仏である。」と答えられました。(阿弥陀仏が衆生を救う近い・四十八願中で特に第十八願を指し王本願という)

法然上人は凡夫往生の道、つまり機根比べは学問上の問題ではなく「現に今、自身はどうなのか、そしてどうするのか。この事実の前にはいかなる理論も通じず、一歩を譲らなければならない。」と説かれた。法然上人が念仏によって極楽へ往生できることをはっきりと示したその時、本尊の阿弥陀仏がまばゆい光を放って、その主張が正しいことを証明されたのでした。どんな人でも極楽浄土へ生まれ変われると知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けたと伝えられています。

勝林院沿革

元号西暦事項
長和2
1013寂源、勝林院を創建。本尊阿弥陀如来坐像は大仏師・康尚の作。
寛仁41020法華八講に際しての論争で本尊が自らの意を示したことからその本尊を「証拠阿弥陀」と称す。(大原談義)
永承元1046・1047大仏師法橋上上人・定朝と漆工大仏師・春久によって改造される。
文治21186法然と諸宗硯学が宋論を戦わせた「大原問答」が行われる。
正治21200仏師・慶秀が本尊を修補。
嘉禎21236梨本門主御修復。この時、光背中の三千仏と二菩薩を新造。
延徳21490盛夏(8月)庄内の騒動により本尊に火がかかり本尊を取り出す。時に御顔を破損する。
延徳41492衆縁勧進を募り、本尊の御顔を修補。(現本尊の御顔)
大永4 1524本堂再建のため衆縁勧進を募り、本堂を再興。
天文1315447月の大洪水により両院本堂と本尊を破損するが、閏11月修補する。
元和年中 1615~1624再建のため衆縁勧進を募る。
寛永年中1624~1644お江の方=崇源院御菩提のため、春日局が再建する。
・9年(1632年)9月3日、手斧始め。
・10年(1633年)9月15日、堂供養の庭儀曼荼羅供・舞楽。
享保211736正月4日、焼失
元文217379月、本尊の開眼供養。◇現阿弥陀如来坐像
宝暦41754本堂再建のため衆縁勧進を募る。
明和41767寛永年中将軍家建立の主旨を述べ再建の支援が幕府より許可される。
安永71778現本堂竣工。
安永817793月15日、本堂を供養、庭儀曼荼羅を供す。
平成242012本尊阿弥陀如来坐像の胎内仏三躯を調査する。
平成252013勝林院開創一千年紀が開かれる。寂源上人御影の掛軸を修復する。

※『証拠阿弥陀如来腹内記』などを参考に作成